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「あっつぅ…」
真夏の冗談みたいに強い日差しが、僕の肌を冗談みたいに焼き付ける。
今日は雲一つさえなくて、眩しさも尋常ではない。
暑さを紛らわせるためにアイスを買いに行った筈なのに、その帰り道の公園で更に暑い思いをしている。
いい加減暑さと流れる汗にうんざりして、日陰のベンチに腰をおろす。
「よーし、いいぞー、その調子だ!!!」
この暑い中、わざわざ公園で仲良し親子がキャッチボールをしている。元気だねぇ、などと独り言を呟きながら買ったばかりのアイスをコンビニ袋から取り出す。ソーダ味のアイスを口に入れると、キン、と涼しくなる。
ふと、足元にボールが転がってきた。
「ごめんなさーい」
小さな男の子がそう言ってボールを取りにきた。僕はそれを拾って、軽く笑いながら男の子にポンと手渡す。男の子ははにかんで笑いながらぴょこんと頭を下げて、パパとママのところへ戻って行った。自然と、目が追う。
「随分上手くなったなー、こりゃ天才か」
「そうね〜、天才天才! すごいぞっ」
「本当? ボクうまい?」
「ああ、うまいうまい。天才だ」
「わあい!」
アイスを食べながら、失笑する。あれだけ天才天才連呼していても、小さい子がそんなに上手にできるはずもなく、拙い動きである。それでも天才天才と言うとは、相当親バカなのだろうか。
「まあー微笑ましいわねえ。やっぱり親子でのキャッチボールは家族の夢ね」
「懐かしいな、うちもやったよなあ」
通り掛かりの老夫婦がそんなことを言いながら通り過ぎていく。
そうなのだろうか。
「英才教育して野球選手でもお作りになるんじゃないですかぁ」
どうにも反発したくなって、小声で呟いた。アイスの溶けるのが早くて、慌てて液をすする。
空を見上げる。やはり雲は一つもなくて、真っ青であった。強く、青かった。
突然、子供が駆けて来て、目の前で転んだ。どこかすりむいたのか、打って痛いのか、恥ずかしくてなのか、今にも泣きそうである。声をかけようと立ち上がろうとしたら、母親らしき人物が駆け寄ってきた。
「ほーらヒロくん泣かない泣かない〜。強いぞ強いぞ〜!!!強いから泣かないもんね?」
そう言われたヒロくんは、うん、と答え、口を真一文字にして立ち上がった。ごまかすように、泣いてないことを証明するように、服の砂を払う。母親はヒロくんの頭をくしゃくしゃと撫でて、二人で再び歩き出して行った。
先に父親がいたらしく、男性にヒロくんが肩車されている。ヒロくんは、笑っている。
泣きたいときには泣いた方がいいのに、と思った。転んで泣きそうになるのを、小さい子供が無理する必要などどこにもない。ただ、確かに親は周りの視線を感じて気まずくなるのだろう。
本当に泣かないことが強いことだと思っているにしても、そういう親の都合で子供の泣く機会を奪っていることには変わりない。強さと泣けない哀しさは、紙一重なのに。
「子供は犬じゃないぞー、"泣いて"悪いことなんかありはしない」
公園の入口で犬が大声で鳴くのを聞きながら、独り言を宙に浮かべる。
頭は勝手に小さい頃のことを思い出していた。
■
「ママ、また泣いているの?」
ママは少しびくん、と驚いてから振り向いた。そして、ぶんぶん、と首を振りながら僕の肩に手を置き、ごめんね、なんでもないよ、とつぶやく。片手にはゴミ袋。目の前にはすこし黒くて赤い物体。僕にはそれが何かわからない。でも、わかってはいけない気はした。
□
暑さにやられたのか、回想にやられたのかわからないが、頭がふらっとした。気付け代わりにだらだらと舐めていたアイスを一噛りする。歯も、頭も、キンとした。
あの時、パパがいつのまにか動物を解剖するようになって、ママはそれを僕に見せないようにこっそりと片付けるようになって、パパは毎日笑うようになって、ママは毎日泣くようになって、僕はただただぽかんとしていた。
そして僕が「物体」の正体を知るようになって、その「なんでもないは通じなくなったのだった。
■
「パパぁー、何してるのー」
「ああ…おまえもやるかい?ほら、これが猫さんだよ。こっちがワンチャンだ。ほら、こうしたら、頭は猫さんで体がワンチャンの怪獣ができるだろう?」
僕は瞬間、とてもいけないものを見た気がして、赤いものが血だとなんとなくわかって、猫さんもワンチャンももう鳴かないんだということがなんとなくわかって、力の限り首を横に振って、逃げ出した。
「ママぁー! パパがぁー!」
僕がそう叫ぶと、ママは慌てて飛び出してきて、パパのいる部屋にずかずかと入り込み、ねぇ、とパパに呼びかけた。僕は恐る恐るその様子を見る。
「もういい加減にして!」
ママはぴしゃりと、雷のように言った。
「もう――やめて」
ママは静かに、さざ波のように言った。
パパはピンクの管を指に巻きつけたまま呆然としていた。
ママは部屋の外に出てきて、僕の手をひいて近くの雑木林に連れて行った。小さな花束が置いてあるところがあって、ママはそれに向かって手を合わせた。僕もそれを真似した。
「パパはね、さっきの以外にも何回もね、猫さんや鳩さんをばらばらにして殺しちゃったの。ママはね、それをここに埋めたの。ごめんなさいって。次は幸せになってねって。パパ本人は、いろいろあって疲れちゃったから来られないの。だから、坊もお参りしてあげてね」
ママは泣きそうな声で、雨粒が落ちるように言った。
ママと家に帰ると、庭に掘り返されたような跡があって、その辺で摘んできたような、雑草の花が供えられていた。怪獣や、その血などはもうなかった。
「ママ、パパも反省したみたいだよ」
僕がそう言ってようやく、ママは怪獣がいないことも庭の土が盛り上がっていることも花が供えられていることも気付いたみたいで、少しほっとしたような顔をしてお昼ご飯の準備を始めだした。
パパはどこかへ出かけていた。
□
あの後パパは、公園で獲ってきたのか、鳩を何羽か持って帰ってきた。そして、パパはまた始めてしまったのだった。鳩をバラバラにするパパを見て、ママは青ざめた顔で泣きながら家を出ていく支度をし始めた。幼稚園の頃だった。当時の僕はそれが何を意味するのかわからずに、ママが荷物をまとめるのを見ていた。
そして、ママは僕を捨てた――。
ぞくう、と寒気がして僕は空を見た。相変わらずな日差しに、寒気が治まる。まだ半分くらい残ったアイスをべろべろと舐める。
■
「出ていきます」
ママは突然そう言った。ママが荷造りしてるのさえ知らなかったパパは、少し泣きそうになっていた。ママは僕の傍まで来て、小さな声で言った。
「ごめんね。ママはもう耐えられないの。でも、坊はパパと一緒に居てあげてね。ごめんね。わかってね」
なにをわかればいいのかはよくわからなくて、お腹がうずうずしてきたけど、ママが相当つらかったことと、僕がパパを支えなきゃいけないのだろうということはわかった。
こくん、とうなずくと、ママは僕を、静かに泣きながらそっと抱きしめた。
「元気でね」
そう言って、振り返ることなく行ってしまった。
「うああああ」
ママが見えなくなるとパパはそんな風に鳴きながら僕をぎゅっと抱きしめた。なんとなく、鉄の臭いがした。
「ああああ」
パパはまだ鳴いている。僕はパパの背中をポンポンとなでてあげた。
「お前はどこにも行かないよな? 行かないでいてくれるよな?なあ?」
叫ぶように言うパパに、僕はうん、と返事をした。
「パパ、空がすっごく青くてすっごく綺麗だね」
ああ、と、つぶやくような、つぶれたような声の返事が聞こえた。
□
あの日の空は、このアイスの色よりも濃い青だった。丁度今日のように、雲一つなく、強い青だった。ママが出ていってから、パパは『怪獣作り』はやめた。
けれど、僕は幼稚園に行くことしか許されなくて、小学校に行くことしか許されなくて、パパに縛られるような形になってしまった。数少ない他の外出として日々の買い出しは一緒に行った。ある時どうやってお金を捻出しているのかと聞くと、
「パパは昔は偉かったんだぞー。貯金はたんまりあるぞー」
と返ってきた。確かに特に節約するでなくとも、食べるには困らなかった。もっともそれは交際費や娯楽にお金をかけなかったからかもしれない。縛られた僕は放課後や休日に友達と遊びに行くことはなかった。
そうすることををパパは許さなかった。僕はそれに甘んじた。恐らく、反抗は一度もしなかったように思う。
そうやって縛りだか依存だかよくわからないものを見過ごしてパパを甘やかし、僕自身が駄目になっていった。
幼稚園では友達と園内だけの付き合いでもよかった。周りの親達に我が家の異変が囁かれていたかもしれないが、特に影響を感じた記憶はない。だが小学校となると違う。
よくないとわかりつつ、その状況でも遊ぶのは休み時間だけで、放課後の誘いは全て断った。
友達の家に行くのも僕の家に来られるのも運動場で遊ぶのも虫取りをするのもゲームをするのも全て、放課後の誘いは断った。そういう、僕に何かしらの放課後の誘いをかける奴らは最初こそいたが段々と減り、やがて皆無となった。学年が上がりクラスメートの顔ぶれが変わっても、僕はその意味において有名になっており、やはり誰も誘ってこなかった。小学生男子で放課後全く遊ばないなんて、意図的ではなくても何となく仲間外れになってしまう。無視や嫌がらせや暴力といったようないじめは幸いにもなかったが、放課後ではない普通の休み時間でも僕に積極的に話しかけてくる奴は少なかった。
もっともその原因であるパパやママの話を無闇に聞かれたり話したりしなくて済むので好都合ではあった。
アイスを一かじりする。空を見上げる。
好都合だった、と諦めに近いものもあった。それでもあの日と同じような青空を見る度に、その強さに未来への希望や救いを見い出していた。パパに青空を見せれば正気に戻るのではないかと、そして普通に友達と遊べるようになるのではないか、とさえ思った。もちろん何度パパが青空の下に出て、そして見上げたたところで変わらなかったけれども、青空は僕にとって不変の救いの象徴だった。
青空にアイスを掲げる。いつの間にかアイスの残りはあと少しになっていた。持っていたのはアイスではないが、前にもこうやって青空に手を掲げたことがある。そういえばしてないと思った反抗もこの頃に一度したな、と呟く。高校生の頃の話だ。
■
「今日もまっすぐ帰れよ」
そうパパに言われて僕は学校に通う。中学では小学校とそう変わらない顔ぶれだったのでさほど苦ではなかったが、高校はまた新しい顔ぶれだったので状況を知らない人が多く、誘いや理由の問いかけが非常に面倒だった。そして僕も人並みに遊びたい気持ちが強くなっていった。ある日、学校で仲良くなった友達が熱心に誘ってくれたので一度だけ、と思い帰りに少し遊んで帰った。帰宅すると
「まっすぐ帰れよ!」
という怒声とともにパパから殴られた。大して強い力ではなかったがパパはガクガクと顔を真っ赤にして震えている。
「言っただろう!まっすぐ帰れよ!遅いじゃないか!まっすぐ帰れよ!お前はパパを捨てないんだろう!捨てるのか!違うならまっすぐ帰れよ!」
パパはそうまくし立てた。僕は頬を押さえながら怒りというより絶望を少し感じていた。
「ごめん、パパ。でも、僕だって高校で生活しているんだ」
やっとの思いでそう言うとパパは
「お前はパパが大事じゃないのか?」
と呟いて僕の肩を掴んみガクガクと揺らした。僕はもう一度謝り、大事だよと答え、部屋に逃げ込んだ。その夜はほとんど眠れなかった。
眠れないまま翌朝がきて、またパパがまっすぐ帰れよ、と言う。今日は少し遠慮がちなように聞こえた。僕はできる限りの笑顔でうなずき、パパをしっかりと抱擁した。そして学校へ向かった。天気は快晴だった。
学校ではいつも通りに過ごし、いつも通りに終礼の後すぐに学校を出た。この帰り際。僕は金物屋に向かっていた。そこで包丁を買おうと考えていた。パパを刺すために。もう僕がこれ以上パパに侵されないために。どんどん歩を進めていく。膨らんだ絶望は殺意となっていた。やがて金物屋が視界に入ったとき、青空も視界に入った。快晴の青空が視界に入った。雲一つ見えない、あの日と同じ青空が意識に入った。僕は歩を止めた。
「青い…」
僕にとって青空は救いの象徴。
パパは不安定に揺らぎ壊れた。僕はどんどん侵されていく。級友だって変わっていってしまうかもしれない。そんな中だからこそ、変わらない青空の強さに僕は救いを見い出していた。
今日は快晴だった。
青空の強さはあの日と変わらなかった。押し潰されそうな青さだった。涙が頬をつたってきた。そうだ。青空が変わらないから状況も変わらないかもしれない。だけど救いがあることにも変わりない。僕は青空に支えられている。
今日は快晴だった。
「まだ、頑張れるかもしれない」
僕は歩を進めた。金物屋を通り過ぎる。殺意が消えたわけではないけれども、包丁を買うのは止めて帰宅する。
「ただいま」
返事はなかった。いても返事がないのはよくあることだったが、とにかく返事がないことにホッとする。薄暗い玄関のドアにもたれて座り込み、わずかに、でも確実に残った殺意を必死で抑えようと手を握りしめる。 僕がこんな状況なのはパパのせいだ、だの、僕はもう駄目だ、だのといった思いが次々に浮かんでくる。それらを、ひいては殺意を抑えるために僕は自身に問いかけた。
僕は駄目ですか?主体性のない人間ですか?パパに寄りかかられ侵され始めた時から駄目になりましたか?もう僕は終わっていますか?
答えは、否。
不幸が僕をいくらあざ笑っても、青空があるから、支えがあるから、腐らないから、もう絶望しないから。
「大丈夫」
声に出してはっきりと確認した。駄目になりつつはあったけれども、まだ駄目にはなっていない。そしてもう駄目になることもない。僕はある決意をした。握りしめていた手にはびっしょりと汗をかいていた。その汗をズボンで拭き僕は立ち上がった。何事もなかったかのような顔をして家の中を見て回ったが、電気は消されていて、パパの姿はどこにも見当たらなかった。不思議に思いながらも明かりを点け、ふと食卓に目をやると手紙が置いてあった。それを手に取り字を追っていると電話が鳴った。
「もしもし」
「あ、ママだけど」
「ああ」
「最近どう? 元気? パパはどう?」
質問ばかりだが矢継ぎ早ではなく、ゆっくりと間を空けながらだった。僕たちを捨ててもママはママに違いないらしく、あの日の後から今までにもたまにママからの様子を伺う電話はあった。ただしいつも答えは変わらなかった。
『パパはまだ僕にべったりだよ』
でも今日は、いつもと違う答えを返せる。
「僕もパパも元気だよ、ママ。パパは今晩ご飯の買い出しに行っているってさ。置き手紙があった。今読んでるよ」
「――そうなの」
ママは言葉に詰まっている。
「買い出しはいつも二人じゃなきゃ行かなかったわよね?」
「うん。パパはもう、一人でも大丈夫になったんだよ」
手紙の末尾には「大丈夫」の三文字があった。すん、とすする声が電話口から聞こえた。
「よかったね。よかったね。ごめんね、逃げて」
ママは泣いていた。
「いいんだよ、仕方なかったんだから」
ママは十分対処してきたし、あのまま距離を取らなければママもおかしくなっただろう。家庭は一時崩壊したがまだ大丈夫な筈だ。今はまだ早くても、いつかまた一緒に暮らしたいと、そう思えた。ぽつぽつと二、三言話した後受話器を置き、パパからの手紙を持ってベランダに出る。
青空の下で手紙をゆっくり読み返す。さっき玄関でした決意はパパをゆっくりでも自立させようと、元に戻そうというものだった。パパに侵されるがままでなく、パパを受け止める。そんな決意だった。結局この決意は杞憂だったけれども、僕には必要だったのだと思った。青空にさらされ少し軽くなったように感じる手紙をポケットに仕舞う。僕は空を見上げて、青空に手を掲げた。
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あの頃は、たとえ今戦争が始まっても青空があれば大丈夫、とさえ思っていたように思う。むしろ、僕が生きていようが死んでいようが青空だけは変わらないでほしいと願っていたのだろう。そして今も願っている。 結局パパが大丈夫になったきっかけはよくわからなかったが、おそらく前日とあの日の朝が原因だったのだろう。パパが大丈夫になってもしばらくらは念の為にそれまで通り付いていたが、そんなに日が経たない内に
「もう自由にやれ」
と解放を宣告された。友達と遊ぶようになったし、大学にも行けた。そしてママも何度か家に泊まりに来るようになった。ただ、社会人の今でも当然過去をなかったことになどできず、渦中では無関心か羨望の的だった「幸せ家庭」に対し反感や嫌悪感を抱くようにはなってしまった。
それでも青空がある限り、僕は大丈夫だと思う。青空があればいつかは幸せ家庭に対しても素直になれると思う。明日はようやくママが家に戻る日だ。できるかどうかはわからないが、もしかしたら幸せ家庭に近づけるかもしれない。
掲げたアイスを口に戻し最後の一口を食べ終える。水色のアイスの棒をくずかごに捨てて僕は公園を後にした。
<終>
*あとがき。 4年くらい前から書きだした小説ですがようやく公表できる形となりましたw cali≠gariの「ママが僕をすててパパが僕をおかした日」という曲を元にしてみました。 カリガリシリーズ第2弾。 「おかした」を性的なあれでなく、自由・権利を「侵す」として捉えました、念のため。 |