「気が狂いそうなんだ」
彼は言った。
「限界まで壊れてみるのもいいんじゃないか」
私は言った。
「人に危害を加えるほど壊れたら俺を殺してくれるのか?」
彼は嘲笑した。隙間風が唸りをあげる。
「俺が気が狂いそうだと言った理由はもうわかっているのだろう?」
わかっているとも。だが私は答えない。
「何度でも聞くぞ。どうすればいい?」
彼は組んだ手を額に当てて顔を伏せた。
「こんなことはおまえにしか相談できない」
それもわかっていた。しかし私は答えない。応えない。
「聞いているのか?」
苛立ったように彼は顔を上げて言った。私は首を縦に振る。
「少し頭を冷やしてこいよ。とりあえず落ち着け」
私が促すと彼は立ち上がり無言でさっと部屋を出た。そして一層静寂になる。静か過ぎて耳鳴りがする。
彼は知らない。彼が殺したあの人が私にとってどんな存在だったかを。彼は知らない。
隙間風が耳障りな音をたてた。空気が生暖かい。
しばらくして、霧雨にしっとりと服を濡らした彼が戻ってきた。
あえて口にだした方がすっきりするかもしれない、と彼は呟いた。私は黙って頷く。
認めるのはやはり怖いな、と彼は小さく笑った。私は黙って頷く。
「……死んだなんて知らなかったんだ。もちろん殺すつもりもなかった。ただあの晩は酔いもあって気が立っていたんだ。確かに奴を殴った。奴が気絶していたのも知っていた。だが、」
彼は言葉を切って私の顔色を窺った。どんな顔をしているのだろうか。私は。哀れみか。侮蔑か。労りか。ただただ無表情なのか。はたまた微笑か。
「だが」
彼は視線を床の上に戻して、小さな声で続けた。
「すぐに気がつくか、誰かが通って助けると思ったんだ」
そういう心理はわかっている。充分に。だが目を醒まさなかったし、誰も通らなかったんだ。あの人が死ぬまで。
「ああ、確かに見つかったな。死体で」
意識したわけでもないが少し、棘のある言い方になったようだった。彼が再び私の顔をみる。困惑したように。
「……ああ、死体でな」
唇を噛みながら彼は言った。
あの人が気絶したまま、翌朝から雨が降った。通行人も自然と少なくなり、さらにあの人はその雨が元で高熱をだし、死んで、更に翌日に発見された。恐らく彼はそのニュースを見て、私を訪ねてきたのだろう。
彼は黙っている。
私は言った。
「あの人には随分と世話になってね。私はあの人をまだ失いたくなかった。恩返しをしたかった」
「知り合いだったのか……」
彼は驚く。無理もない。彼と知り合うずっと以前、どうしようもない状態のときだったのだ。あの人に直接会い、世話になったのは。以後は手紙等のやりとりのみであった。
「すまなかった……」
彼は目を伏せる。
「自首でもして罪を償え、と言いたいところだが……」
彼は首をかしげる。
「『だが』? じゃあ自殺でもするべきということか?」
彼は言う。
「死を以て償うってか」
私は声をあげて、ケラケラと笑った。彼はいよいよ不思議そうな顔をしている。
「死でもなく……償うでもなく……」
「では一生苦しむべきか……」
彼は声を落とした。
「それも違うね。気がつかなかったか?」
私は一層可笑しそうに笑って言った。
「確かにあの人は恩人だ。感謝してるし恩返しをしたいのも事実だ。恩返し、をね。ただ…本当に大切な人なら、私の性格なら本当に犯人を殺しかねないだろう?」
「確かにそれは思ったが…」
「あの人はただの自己満足だったんだよ。私の大切な諸々のものを奪ってから私を助けた。詐欺で両親から財産を搾り取り、その上まだ中学生だった私の家に火を放って両親も、わずかに残った財産も、全て奪ったんだ。そして、親戚も少なく途方に暮れた私に、何食わぬ顔で手を差しのべた。
……まあ真実を知ったのは割と最近なのだがね」
「俺も、汚い根回しされてるのを知って、カッとなって…」
「裏では最低の人間だったのさ。まあ学費生活費負担を含め、育ててくれたからには恩人であるにはかわりないが。……むしろこんな死に方をしてくれて嬉しいよ」
笑った。盛大に。……空回り。
彼は明らかな哀れみの目をむけている。
「実は、さ」
彼が言った。
「奴……俺の実の父親なんだよな……」
静寂。隙間風は鳴らない。ただ、雨の音が激しくなっていった。
私が驚く番だった。
確かに、彼は見知らぬ人をそのつもりなく死なせたくらいでは「気が狂いそうだ」などという程にまで落ち込む善人ではなかった。もっとも、前例があるわけではないけれど。
「……悪かったな。……で、どうするんだ?」
彼は答えない。
「おい……」
俯いた彼の顔を覗き込んで気付いた。彼は父殺しをしてしまったと気付いてから、自分の運命を決めていたのだ。
外では雷が鳴り始めていた。
「おまえ……」
「ああ。決めていた。死のう、って。少し気がかわったけどな」
そう言って彼は懐からナイフを出した。
「お前を殺して、俺も死ぬんだ」
「おい、短絡的すぎるんじゃないか」
私は慌てて言った。
「何とでも言え」
彼がゆっくりと近付いてくる。
「待てよ」
私は後ずさる。
「このままじゃ…泥沼だ」
刃先が体に刺さりかけた瞬間、私は彼の手首をとって、彼の体にナイフを刺した。
彼はずうん、と倒れる。彼は動かない。ぴくりとも動かない。息もしていない。脈もふれられない。
私はふらりとナイフを拾いあげた。もう、おしまいだ。
逃げるのも、捕まって細かいことを説明するのも億劫になった――でも誤解されるのが嫌な――私は、恩人を殺した友人に感謝しながらも殺したので死にます、と走り書きして、ナイフを自分の体にゆっくりと刺した。
痛覚、違和感、ぬめり、鉄の臭い、蒼白、転倒、
暗転。
私の血が流れきるころには天気も回復しているのだろう。
<終>
*あとがき。
暗い暗い。これは「登場人物の心情と情景描写のリンク」をテーマに書いたものです。
つまり現代文の問題にできそうな感じにwでももはやただのサスペンス風。
登場人物の反応は結構迷いました・・・それから動機や、「殺された男」とのつながりも。
ちょっとうpは迷ったんですが、折角頑張って書いたのでうp。書いたの自体はかなり前です。 |