朝の通勤電車の中で僕はあらゆる渦に飲み込まれる危機に面している。

「でさー、あいつがさー」
「今日のプレゼンどうです?」
「今日体育あるよー、だるーい」
「株価下がりますねー」
あちこちから聞こえる声が干渉して耳障りに響く。響いてまとわりつく。そのどれか一つでも大きければ、渦が強大になるというのに。
おい、そこの大学生達。なぜそんなに大きな声で喋る?そこの小学生を見ろよ、お行儀よく佇んでいるぜ。これ以上渦を強大にしないでくれ。
「●※◎□△▼#§〜」
思考とは裏腹に、渦が大きくなる。
声の渦に、飲み込まれそうになる。
――ああ、酔いそうだ。
暈の前兆を感じたところで電車が停まった。

大学生達が降りて、渦が弱まる。代わりのようにおばさんが乗って来て、過剰な香水の匂いを振り撒いている。離れようにも、混雑。
隣にはコートからするのか、防虫剤の匂いをまき散らすオヤジ。
座席で化粧をして、化粧品の臭いをばらまくガキンチョ。
夏でないのが幸いだ。
汗臭くはない。
夜でないのが幸いだ。
酒臭くはない。

それでも、匂いが臭いが混じって交じって渦になり、飲み込まれそうになる。
――ああ、もう。全くもって、酔いそうだ。

へたり込みそうになったところで、電車が乗降の盛んなターミナル駅に着いた。
人の渦に飲み込まれそうになる。
波ではない、渦に。

ぎゅう、ぎゅう。
どん、どん。
ぷわん、ぷわん。
くん、くん。
くわん、くわん。
きん、きん。

人の渦に飲まれる。
臭いの渦に飲まれる。
音の渦に飲まれる。

飲まれる?飲まれたらどうなる?
どうしようもない?

――もう無理だ。
渦に乗って電車を降りたところで、いよいよ渦に飲み込まれきって、沈んだ。踏まれそうになりながらも、酔って立ち上がれない。勢いに飲まれて立ち上がれない。
渦に飲み込まれたら、渦が収まるのを待つしかない。待っている間にドアが閉まる。僕の降りるべき駅はまだ先なのに。
それでも、遅刻はしない。時間は余裕を見て来ている。毎日のことだから。
毎日?そう、出勤のときは毎日だ。
毎日毎日、嫌になる。

渦が収まり、酔いが消えたので深呼吸をして、立ち上がる。
今日は何度飲まれるのだろうかとうんざりしていると、唐突に声をかけられた。
「よぉ、めずらしーじゃん。押し出されて乗りそこねたかぁ?」
同僚だった。彼の乗降駅はここではなかったはずだが。
「俺も押し出されちゃってさ。仕方ないけど困るよな、この人波は」
まだ暈のする頭のせいで返事ができなかったのに構わず、彼はそう続けた。次第にはっきりしてきた頭で、答える。
「本当に…な。もう、波じゃなくていっそ渦だろうこれは」
「えー? そんな大袈裟なもん? 何、毎日降りて乗りそこねてんの?」
「毎日どころか、今日は何回こうならなきゃならないか案じてたよ」
そう言う僕に同僚は心底驚いた様子だった。彼は渦に飲まれるのではなく、波に押される程度なのだろうか。
アナウンスが流れて電車が進入してくる。
「だって一回降りても普通はまた乗れるだろう?」
「僕は渦に飲まれたら酔うから無理だ」
「へぇ、乗り物弱かったっけか」
「いや、だから渦」
ゴオッ、と眼前を電車が過ぎ、停まった。ドアが開き、渦が吐き出される。僕らは勢力の弱まった渦に入り込む。

ざわざわ。
むんむん。
がたがた。

ほら、やっぱり、渦ばかりだ。
「臭いと声が気持ち悪いんだよ」
混雑に内臓を圧迫されながら説明する。
「お前、電車に酔うっていうより周りにストレス感じ過ぎるんじゃないの?イヤホンしたりガム噛んだりしたらどうよ?」
彼はそう言った。
「はー、なるほどねぇ……」
電車ではなく渦だと訂正するのも面倒なので放置したが確かに、今は彼と話すことに神経が向いているからか、あまり渦が気にならない。彼の言うとおりか。
電車が次の駅に停まり、人の渦が興る。飲まれ始めたところで声がかかる。
「おい、こっち空いてるぜ」
彼が呼び寄せたところはなるほど、空いている。
少しだけ渦に逆らいながら、そこへ向かう。
渦に逆らうなどと、今まで思いつきもしなかった。だが、随分と楽だ。こんなに簡単なことで。
彼は空席を確保し、ちゃっかりと座っている。酔いはいつのまにか、綺麗に消え去っていた。僕はその隣に腰をおろしながら、言った。
「おまえ、船乗りみたいだな。ありがとう」
なんだよそれ、といぶかしげな彼を尻目に、僕から不安と憂鬱は消えていた。
「座れたからってぼーっとするなよ、もう着いたぞ」
彼のことばに腰を上げ、僕は渦の消えた電車を後にした。

<終>






*あとがき。
電車に酔ったり、人の波にのまれることを「渦」と捕えてみました。
逃れられない雰囲気が表せているでしょうか…。
あと最後の「船乗り」は「船頭多くして船山に登る」をちょっと変えて。
一人だとうまくいくかな、と。でもこのことわざ二通り解釈あるんですよね…。
とりあえず同僚は先導者。